ケンゾウの自習室

とあるサラリーマンの学びと思考の記録

アラブの春で民主化の明暗を分けたものと民主主義という「常識」

 

 

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民主主義は世界の常識か?

「民主主義」は僕たち日本人にとってあまりにも当たり前の存在だが、世界を見渡すとそうでもないことがわかる。

 

こちらのグラフを見てほしい。

 

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世界で民主主義国家の割合が50%を超えたのは1990年頃で、2016年時点でも70%に届いていない。

 

民主主義国家に暮らす人の割合も、2016年時点で世界の人口の60%ほどだ。

つまり、今も世界では5人に2人は民主主義が存在しない地域で暮らしているということだ。

 

日本に住んでいると実感できないが、民主主義は歴史的にみるとそんなに当たり前のものではないようだ。

 

今も民主主義を求める人々の戦いは続いていて、最近では香港のデモや台湾の選挙なんかもその一例だろう。

 

 

そして10年前、僕が小学生の時に中東で民主主義を求める戦いが始まった。

 

「アラブの春」だ。 

 

 

アラブの春と民主化の明暗

2010年にチュニジアで起きたジャスミン革命をきっかけに、アラブの春と呼ばれる民主化運動がアラブ諸国に広まっていった。

 

そしてチュニジア、エジプト、リビア、イエメンの4か国は実際に独裁政権の打倒に成功した。

 

 

しかし、エジプトでは新政権に反発するデモに乗じた軍のクーデターにより独裁体制に逆戻りし、リビアとイエメンでは内戦が勃発し民主化が進んでいない。

 

4か国の中で民主化を達成できていると言えるのはチュニジアだけというのが現状である。

 

この記事では、外国からの介入を受けず、内戦に突入することもなく民主化を始めたエジプトとチュニジアを比較することで、独裁政権への逆戻りと民主化成功という異なる結果をもたらした原因を分析してみたい。

アラブの春後の両国の政治の動向

エジプト

アラブの春以前までは代々軍人出身者が大統領になり、独裁政権が続いていた。

 

しかし、ムバラク大統領が辞任した後は言論の自由や政治活動の自由が保障され、民主化プロセスが進展した。

 

そして2012年初の民主的な大統領選挙でイスラム主義組織 「ムスリム同胞団」のムハンマド・モルシが勝利し、6月末に大統領に就任した。

 

しかし、ムスリム同胞団や協力関係にあるイスラム主義組織の優遇、実現可能性の低い公約を掲げその実現に失敗、憲法制定プロセスで違憲判決を下し圧力をかけてくる司法に対して大統領の権限を強化しようと試みたことなどによって国民の不満を強めた結果、政権発足から1周年を迎える2013年6月には退陣を求める抗議行動が激化した。

 

この状況下に軍が介入し、憲法を停止してモルシ大統領を解任、その身柄を拘束した。

 

その後、軍は敵対勢力である同胞団の弱体化、軍人出身大統領制及び旧体制の復活、治安の安定の回復を目指すアラブの春以前の体制への回帰の動きを見せ、2014年の大統領選挙ではムスリム同胞団が弾圧によって候補者擁立が困難であったこともあり、シシが圧勝して大統領となった。

 

その後軍政権は集会やデモ、メディアへの規制を強化し、独裁体制が復活している。

 

 

チュニジア

独裁体制崩壊後の2011年10月に制憲議会選挙が実施され、イスラム主義政党「ナフダ」、世俗主義政党「共和国のための会議」、「労働と自由のための民主フォーラム」との連立政権が成立した。

 

しかし、イスラム主義過激派によるとみられる世俗主義政党指導者の暗殺をきっかけにナフダのハマーディー・ジバーリー首相は辞任、その後同じくナフダ所属のアリー・ アライイドが首相に就任したが、再び世俗主義者の国会議員の暗殺事件が起きたためナフダへの批判が高まり、世俗主義側陣営による抗議行動が激化した。

 

この混乱の中、チュニジア労働総同盟などの市民団体が世俗主義陣営とナフダの話し合いの仲介役を担い、

  • 新憲法起草
  • 次期選挙のための選挙管理委員会の設置
  • ナフダが首相ポストを占める政権の退陣
  • 実務家中心の暫定内閣発足
を条件に世俗主義陣営とナフダの間で合意が成立した。

 

この合意に基づき2014年1 月に新憲法が制憲議会で承認され、2014年10月に国会選挙で世俗主義政党「チュニジアの呼びかけ」が第一党に、ナフダは第二党になった。

 

2014年12月の大統領選で世俗主義陣営カーイド・セブシーが当選、無党派のハビーブ・シードを首相に指名し、同首相はナフダに1閣僚ポストを割り振った形の連立内閣を2015年2 月に発足させた。

 

同内閣の発足をもって、チュニジアの民主化プロセスは完了したと言われる。

 

 

民主化プロセスの明暗を分けた原因

両国の民主化の明暗を分けた原因として、次の4つの要因が挙げられる。

  1. 独裁政権崩壊後の新政権の構造
  2. イスラム主義派と世俗主義派の対立
  3. 政治と軍の関係
  4. 民主化移行プロセスにおける司法の不当な介入
1の「独裁政権崩壊後の新政権の構造」について、新政権崩壊後に実施された選挙の結果はエジプトとチュニジアで大きく異なっていた。
 
エジプトではイスラム主義派のムスリム同胞団が設立した自由公正党が過半数こそ取れなかったが、サラフ主義系の政党が残りの多くの議席を獲得したため、イスラム主義政党間の連立によって多数派を形成した。
 
一方、チュニジアではイスラム主義政党「ナフダ」が第一党になったが過半数をとることができず、世俗主義政党である「共和国のための会議」、「労働と自由のための民主フォーラム」との連立をせざるを得ない状況だった。
 
このように、エジプトではイスラム主義政党が政治を主導し、チュニジアではイスラム主義政党と世俗主義政党が連立して政権運営を行うという構造の違いが存在した。
 
この構造の違いが2の「イスラム主義派と世俗主義派の対立」に影響を与え、両国における民主化プロセスを大きく異なるものにしていたと言える。
 
エジプトでは男女同権やキリスト教徒の十分な権利擁護が明記されないなど、イスラム色の強い憲法案が作成され民主的でないとの反発を招いていた。
 
しかし、イスラム主義派が議会で多数派を占めているためモルシ大統領は妥協せず、国民の不満を高め軍にクーデターの大義を与えてしまったと言える。
 
一方、チュニジアではイスラム主義派と世俗主義派の連立政権であったため、妥協なくして民主化は進まないという認識が両陣営にあったはずである(後述するようにどちらにも軍事力による解決が望めなかったことも影響している)。
 
実際に大統領、首相、制憲会議議長に権力が分散され、イスラム主義政党のナフダから首相が、大統領と制憲会議議長には世俗主義政党からそれぞれポストが割り当てられたように、当初から協調姿勢がうかがえた。
 
ナフダへの抗議デモが活発になった際にはナフダが首相を務める内閣の総辞職が行われたことも歩み寄りの姿勢の表れと言える。
 
 
3の「政治と軍の関係」に関して、1952年にナセルがクーデターを起こして以来軍が政権を握り続け、政治と軍が強く結びついていたエジプトでは、革命後の暫定政権も軍が掌握していた。
 
一方チュニジアでは軍が政権を支えることがなかったため、政権崩壊後も文民が暫定政権を担った。
 
エジプトでは諸勢力の調停の役目を軍が果たしたが、チュニジアでイスラム主義派と世俗主義派の間で調停役を果たしたのはチュニジア労働総同盟であった。
 
チュニジア労働総同盟はストライキのような実力行使の方法はあっても、武力によって敵対勢力を排除する能力がなかった。
 
独裁政権崩壊後も軍が積極的に政治にかかわっていたエジプトではクーデターや武力衝突の余地が存在したのに対し、軍が政治的中立を保ち市民社会が政治の仲介役を担っていたチュニジアでは、政治対立が武力紛争やクーデターにつながる可能性は低かったと言える。
 
この構造の違いは、最終的に軍が武力を背景に交渉に臨んだエジプトと、時間をかけて対話を続け、妥協点を見つけるしかなかったチュニジアという構造の違いをもたらし、軍のクーデターによる独裁政権への逆戻りと民主化の成功という結果の違いをもたらした要因の一つと言える。
 
 
また、4の「民主化移行プロセスにおける司法の不当な介入」について、チュニジアでは司法による介入はほとんど見られなかったが、エジプトでは民主政治への移行プロセスにおいてたびたび司法の介入が見られた。
 
それらは旧体制の下で作られた憲法理念に従ったものであり、革命後の新憲法制定に際しては不適切なものであった。
 
司法は議会選挙制度や立憲起草委員会の選出方法をたびたび違憲と判断し、人民議会を解散させ、憲法起草委員会も一度解散、二度目の発足の際も解散させることが予想されたため、議論を尽くさないままに憲法制定が急がれた。
 
司法による介入に対してモルシ大統領はムバラク政権時代のような強力な大統領権限の行使によって対処しようとし、憲法案にも大統領権限が司法からさえ干渉されないという内容も組み込んだ。
 
独裁的と批判され軍によるクーデターにつながったこれらの行動は、司法による不当な政治への介入によるものであり、これは民主化を妨げた一つの原因と言える。

 

 

政治学会の見解

ミシガン大学のファン・コール教授は、チュニジアで民主化がうまくいっている理由(エジプトでうまくいっていない理由)について以下の5点にまとめている。
  1. チュニジアでは軍が中立を保った(エジプトでは繰り返し介入して不安定化の要因となった)
  2. チュニジアではイスラム主義派が自制して、立憲プロセスでイスラム法条項に固執しなかった。野党政治家の暗殺事件に対する辞任要求を呑んで内閣総辞職を約束した。
  3. チュニジアでは労働組合の全国組織(UGTT)が自立的でかつ強力だったため仲介役を果たせた(エジプトの労働組合は自立的でも協力的でもない)
  4. チュニジアの世俗主義派はイスラム主義政党であるナハダの排除を要求しなかった(エジプトではムスリム同胞団の全面排除を図って、持続的な抗議行動を招いている)
  5. チュニジアの経済は若干ながら改善している(エジプトではムスリム同胞団期と軍政期を通じて経済停滞)

上の1~4については、「司法の干渉」というキーワードを除けば概ねこの記事の内容と重なっている。

 

 

しかし、5番の経済的条件については、この記事では民主化に影響を与えた要因として挙げなかった。

 

それは、独裁政権崩壊後に両国で経済が悪化し失業率も上昇しているにもかかわらず、チュニジアでは民主化が達成され、エジプトでは独裁体制への逆戻りが起きたという事実が、明らかに民主化の明暗を分けた要因が経済ではなく、その他の政治的要因や社会構造の違いに存在することを示しているからである。

 

「チュニジアの経済は若干ながら改善された」と言っても、微々たる改善でしかない。

 

どちらも経済状況が悪化しているという条件において民主化運動の結果に違いが生まれているならば、それはその他の要因の結果であると考えるのが当然ではないだろうか?

 

そのため、この記事ではチュニジアとエジプトにおける民主化の明暗を分けた原因として経済的要因を挙げなかった。

結論

アラブの春後にエジプトとチュニジアで民主化の明暗が分かれた原因は、独裁政権崩壊後の新政権における政治構造の違い、それに伴うイスラム主義派と世俗主義派の対立(協調)の違い、政治と軍の関係の違い、司法による政治への不当な介入の有無にあると言える。

 

 

こうしたアラブの春の事例と比べて、日本の民主化が比較的(少なくとも教科書を読む限り)スムーズに進んだのは、ほぼ単一民族で構成された国家であることや天皇を中心にした国体(少なくとも政治はそれに基づいて行動した)であることが理由だと思っていた。

 

もっと簡単に言えば、国内に宗教や思想における対立構造がなく、天皇を中心に一つの民族がまとまりをもっていたから民主化がうまく進んだと思っていた。

 

もちろんそうした面もあるかもしれない。

 

しかし、やはり総力戦の果ての敗戦とアメリカという強大な占領国のパワーによって導かれたというのが現実だろう。

 

戦前の参政権の制度や政治が制御できなかった軍部のことを考えると、敗戦というハードリセットがなければ日本の民主化はいつのことだったのかという気持ちになる。

 

チュニジアのように国内から民主化運動が起き、それが平和的に実現されただろうか?ということだ。

 

 

民主主義は世界中のすべての人が望むものだと僕は信じているが、それを実現するためには例外なく多くの血が流されたという歴史もある。

 

昨今のニュースでは民主主義や自由についての話題が絶えないが、今この国にある民主主義が当たり前のものではない、奇跡のようなものだと思って、大切にして生きたいと思う。

 

要するに、ちゃんと選挙に行こうと思う。

~完~