【感想】『新世界より』を読んで銃社会について考えさせられた

「新世界より」という小説を読んだのは僕が中学生の頃だったと思う。

 

 

「悪の教典」や「鍵のかかった部屋」で有名な作家・貴志祐介が書いた小説で、人類が超能力を使えるようになってから1000年後の世界が舞台だ。

主人公とその友人たちが町から遠く離れた山の中を探検していたとき、偶然自分たちの社会の秘密や隠された歴史について知ったことで、物語は大きく動いていく。

 

その中で描かれる、主人公たちの社会についてのある設定が、個人的にはアメリカで頻繁に起こる銃乱射事件について考える上で重要なヒントになる気がした。

 

ここからはある程度重要なネタバレを交えながら書いていきたいが、ネタバレといっても文庫本で上・中・下と3冊あるうちの上巻までの内容なので、それほど気にせず読んでほしいと思う。

 

まずはざっと物語の舞台を解説する。

 

舞台となるのは、人類が超能力を使えるようになってから1000年後の世界だ。

その世界では超能力を「呪力」と呼び、呪力を利用して快適な社会を築いている。

貨幣制度はなく、人々は互いに助け合いながら生活を営む。

移動は街中に張り巡らされた水路を船で移動し、機械や科学技術製品はほとんど存在しない。

電気もガスもないが、万能の力を持つ呪力によって生活に困ることはない。

そして、人間は呪力を権力の源として「バケネズミ」という高い知能を持つ社会性動物を支配し、彼らを使役することで面倒な労働からも解放されていた。

 

ざっと解説するとこんな感じである。

ここから重要なネタバレを含むため、注意して読み進んでほしい。

 

主人公たちが暮らす「神栖66町」では、不思議なことが起きていた。

 

成長した子供たちは「祝霊」と呼ばれるポルターガイスト現象と共に呪力が使えるようになるのだが、祝霊がいつまでたっても来ない子供たちはいつの間にか学校から姿を消し、周囲の子供たちの記憶からも消えていく。

 

それだけでなく、呪力を使えるようになってから進学する上級学校においても、呪力のコントロール能力の低い子供たちや、倫理的なルールを守ることが出来ない子供たちの姿が消え、周囲の記憶からも消えていく。

 

主人公の早紀は消えていった子供たちを誰も覚えていないことに不信感を抱きながらも、その理由を深く考えることはなかった。

 

ある日、学校行事で町から遠く離れた山を探検していた早紀は、同じ班のメンバーである覚、瞬、守、真理亜と共に「ミノシロモドキ」と出会う。

 

ミノシロモドキとは作中に登場する「ミノシロ」という生物にカムフラージュした「自律進化型・自走式アーカイブ」で、要するに「動く図書館」だ。

そのミノシロモドキをつかまえて自分たちの社会の成り立ちを聞くと、学校で教わる平和な歴史とは違い、人類は血塗られた歴史を辿ってきたことが発覚する。

 

人類は1000年前、人口の0.3%ほどのごく一部の人間だけが突然超能力を使えるようになった。

やがて彼らの中からその能力を使って凶悪犯罪を起こす者が現れると、能力者に対する一般人類の反発から、能力者と非能力者の間で戦争がはじまり、文明が崩壊した。

それ以降は能力者が非能力者を支配する奴隷王朝と、血縁関係を持つ能力者だけで構成された略奪者のグループ、非能力者の狩猟民、先史文明の生き残りの科学者の4つのグループが誕生した。

 

今更だがこの作品でいう呪力(超能力)はたいていのものは破壊することが出来るし、何もないところに火を起こすこともできるなど、イメージさえできればだいたいのことはできてしまう、とにかく強力な力であることを説明しておく。 

 

そんな強力な力だから、目の前の人間と話していてちょっとイラっとすれば念じるだけで相手の頭を吹き飛ばすこともできてしまい、とてもじゃないが能力者同士で平和な社会を築くことは困難だった。

 

いつ自分が殺されるか分からない状況では、疑心暗鬼になるのも無理はない。

結局、奴隷王朝や略奪者のグループは能力者同士の殺し合いで崩壊してしまったのだ。

 

そこで立ち上がったのが科学文明を継承していた人々だ。

彼らは教育やマインドコントロール、性愛の自由化など、呪力を用いた人間への攻撃を防いで平和な社会を築くための手段をいろいろと試した。

 

しかし、結局のところ能力者の社会では一人の暴走ですべてが崩壊するため、人間への攻撃を究極的に抑制するために残された最後の手段は、人間を遺伝子レベルで改変することだった。

 

人間に施された遺伝子操作とは、「攻撃抑制」と「愧死機構」と呼ばれる二つの遺伝子を加えることだった。

 

オオカミなど高い殺傷能力を持つ動物にみられる攻撃的な衝動を抑制する機構をもとに開発されたのが「攻撃抑制」だ。

 

そして、 同種である人間を攻撃しようとしていることを脳が認識すると、無意識に呪力が発動して動悸や眩暈などの警告発作が起き、それでも攻撃が続行された場合には発作によって死に至るのが「愧死機構」だ。

 

この二つの遺伝子によって、呪力を持つ人間同士での殺し合いはできなくなるという理屈だ。

 

ここまで説明を読んで、疑問を持った方もいるのではないだろうか。

そう。

 

この遺伝子、発現しないやついたらやばくね?

 

 

呪力を持つ人間のほとんどはこの遺伝子によって対人攻撃が抑制され、万が一殺人を犯した場合にはその個体は死滅するという仕組みでこの社会は平和を保っている。

 

つまり、何らかの原因でこの遺伝子が発現しない個体が現れたら、この社会はその個体に対して反抗できる者はおらず、一方的に攻撃されることになるのだ。

 

そしてもちろん、この小説でもその問題を扱っている。

 

作中ではこのような遺伝子疾患をラーマンクロギウス症候群、その患者を通称して「悪鬼」と呼んでいる。

 

僕はこのストーリーを読んだとき、銃社会について考えさせられた。

 

人類がピストルを発明して以来、一人の人間が大量殺人を犯すことは飛躍的に容易になった。引き金を引く力さえあれば子供でも女性でも多くの人に致命的な攻撃をすることができるからだ。

 

以来、人間の社会は基本的に2つのタイプに分かれている。

 

一つは、一部の例外(警察や特別な許可を得た猟師など)を除いてすべての人に銃の所持を禁止している日本のような社会。

 

もう一つは、一部の例外(犯罪歴のある者や精神病患者など)を除いてすべての人に銃をもつ自由を保障しているアメリカのような社会。

 

日本型の社会は小説で描かれている神栖66町と同じで、悪鬼(銃で犯罪を犯す者)の出現を防ぐことで平和を維持し、

アメリカ型の社会は悪鬼(銃で犯罪を犯す者)に対して社会の構成員すべてが対抗できるようにしておくことで平和を維持している。

 

もちろん、念じるだけで人を殺せてしまう呪力と銃を置き換えて考えるのは無理があるかもしれないが、銃による犯罪をどう防ぐか、どう対処するかを考えるうえで、この小説はとても大きなヒントをくれる。

 

誰も銃を持たないからこそ、銃を持つ犯罪者はもちろん、包丁で攻撃してくる通り魔にさえなすすべがない日本型社会と、

強すぎる殺傷能力を持つ武器が国中に出回っていることで、数年に一度は乱射事件で大量の犠牲者を出すアメリカ型社会。

 

どちらがより良いというわけではないが、人間が本来持つ能力をはるかに超える強力な力を手に入れてしまった人類の文明は、

強すぎる呪力を手に入れてしまった人類のごとくその能力に自ら枷をつけるか、あるいはその枷がなくても平和を維持できる仕組みを探さなくてはならないのかもしれない。

 

「新世界より」を読んだことがない人は、ぜひ読んでほしいと思います。

 

こんな小難しいことを考えながら読まなくても、シンプルにストーリーが面白いため、きっと楽しんでもらえるはずです。