『最強のふたり』は2011年公開のフランス映画で、事故で体が不自由になった富豪と、その介護人となった貧困層の移民の若者の交流を描いた作品だ。
軽くあらすじを紹介する。
パリに住む富豪のフィリップは、事故による頚髄損傷で首から下の感覚がなく、体を動かすことが出来ない。
住み込みで彼の生活を支える介護人を雇うために候補者の面接をしていたところ、移民の青年ドリスがやってくる。
彼は失業保険を引き続きもらえるよう不合格証明書にサインが欲しかっただけだが、気難し屋のフィリップは介護や看護の資格も経験もないドリスをあえて採用する。
周囲は彼の採用を反対していたが、仕事が少々雑ながらもフィリップを「障がい者」ではなく一人の人間として扱ってくれるドリスに、フィリップは少しずつ親しみを抱いていく。
『最強のふたり』は体が不自由な富豪の老人と、その介護人を務める移民の青年の交流を描いた作品である。
作品の中でドリスはフィリップの障害を使ったジョークを連発し、周囲をドン引きさせる。
首から下を動かせないフィリップの膝に電話を置いて「電話に出なよ!」と言ったり、チョコレートを求めるフィリップに「このチョコレートは健常者用だよ!」と発言したり。
およそ日本でやれば大炎上しかねないジョークの数々だ。
しかし、そんなドリスにフィリップは心を開いてく。
彼にとってドリスは、自分を「障がい者」ではなく一人の人間として扱ってくれる数少ない人間だからだ。
この映画を観て僕は、これまで障害のある人への向き合い方を深く考えたことがなかったことに気付いた。
そして障害を持つ人との接点はできるだけ減らしたいと考えていた自分にも気が付いた。
もちろん、小学生の頃から学校の授業や講演で障害のある人への配慮について教わってきた。
点字やバリアフリーについても学習してきたし、道徳の授業でも彼らが不自由なく生活できる社会がいかに大切であるかを学んできた。
しかし、それらは本質的な向き合い方を教えるというよりも、可もなく不可もない対応を、言い換えれば周りから批判されない接し方を学んだだけのように思う。
僕たちは障害のある人達に特別な配慮を求められる。
彼らは社会的な「弱者」であり、彼らを「支える」ことが当たり前とされ、間違っても障害をからかうなんてことは許されないし、うっかり彼らの心を傷つけるような失言をすれば批判を浴びる。
Twitterでの炎上やリプライをみると、「障害者」ではなくひらがなを使って「障がい者」と表記しろだとか、チャリティ番組で運動している映像を流すなだとか、ほとんどいちゃもんに近い批判もある。
こうした批判を耳にするからこそ、僕たちは障害を持つ人たちと関わることを避け、無難な対応で済ませようとする。
彼らをサポートしようとして不用意な言動で彼らを傷つければ、あるいは周囲の人にとって気に入らない行動があるだけで、批判を浴びることになるからだ。
しかし、ドリスは違った。
彼はフィリップの障がいをジョークで笑い飛ばすし、体を動かせない彼の前でダンスも踊る。
普通の人ならこんな行動は批判を恐れてできっこない。
でも、ドリスのこういう行動こそ、本当の意味で障害のある人と共に生きるということなのではないかと感じた。
障がいを笑えということではない。
障がいを触れてはいけないもの、タブーのように扱うのではなく、言うなれば一つの「個性」として扱うことが求められるのではないだろうか。
障がいがあるからといって腫れ物に触るような対応をするのではなく、あくまでも一人の人間として向き合う。
それこそが本当の意味で障害のある人と向き合うということなのだろうと感じた。
みなさんもぜひ、『最強のふたり』を観て障害のある人との向き合い方を考えてみてはどうでしょうか。
Amazon Primeで無料で観られるので、ぜひチェックしてみてください。